RPE65遺伝子変異による網膜ジストロフィに対する「ルクスターナⓇ」に代表されるように、眼科領域でも数千万円に及ぶ遺伝子治療が実用化される時代になりました。今後、こうした治療が他の遺伝性網膜ジストロフィのみならず、患者数の多い加齢黄斑変性や緑内障などへと広がっていけば、日本の国民皆保険制度は大きな転換点を迎えることになります。
医療経済学の分野では、超高額遺伝子治療が現在の保険制度のまま広く普及した場合、その財政的な持続性はきわめて厳しくなるとの見方が一般的です。遺伝子治療は、一度の投与で長期間にわたる効果が期待できることから、失明に伴う介護費や社会的損失を減らし、生涯を通してみれば費用対効果に優れた治療と評価されることが少なくありません。
しかし、そこには大きなパラドックスがあります。長期的には社会全体の利益につながるとしても、高額な治療費が一度に発生するため、患者数が増えれば単年度の医療費への影響はきわめて大きくなります。仮に治療適応となる患者が年間数千人規模に及ぶ疾患へと拡大した場合、その年の医療費は数千億円規模で増加し、現在の仕組みのままでは財政的に支えきれなくなる可能性があります。
この問題を解決するためには、従来の「一括支払い」から脱却し、新しい償還制度を導入することが現実的です。欧米ではすでに、治療効果が得られた場合にのみ満額を支払う「成果連動型支払い」や、効果の持続期間に応じて複数年にわたり支払いを行う「分割支払いモデル」など、新しいファイナンス手法が検討され始めています。超高額遺伝子治療を持続可能な形で社会に実装するためには、日本でも同様の制度設計を議論する必要があります。
このような状況の中で、日本眼科学会や関連学会が果たすべき役割はこれまで以上に大きくなります。最も重要なのは、限られた医療資源を真に恩恵を受けられる患者へ適切に届けることです。そのためには、疾患やその治療を十分理解している専門家集団の立場から、遺伝子検査の標準化や、画像・機能評価に基づく適応基準を明確にする必要があります。すなわち、「誰に治療を行うべきか」だけではなく、「誰に治療を行うべきでないか」についても、科学的根拠に基づいて判断できる枠組みが求められます。高額な治療を漫然と適用することは、患者の利益を損なうだけでなく、医療財政にも重大な影響を及ぼしかねません。各眼科関連学会には、こうした治療の適正使用を確保するための仕組みを作ることが求められています。
また、遺伝子治療は歴史の浅い治療法であり、本当に生涯にわたって効果が持続するのか、あるいは数年から十数年後に予期しない副作用が現れないのかについては、まだ十分な知見が蓄積されていません。そのため、国内で治療を受けた患者を長期に追跡する全国レジストリの構築と維持がきわめて重要になります。各眼科関連学会が日本眼科学会と連携してリアルワールドデータを蓄積することは、治療の有効性と安全性を検証するだけでなく、「成果連動型支払い」など新たな制度を支える基盤にもなります。
これまで日本の医学会は、「優れた治療なので保険適用を認めてほしい」と行政に要望する立場であることが一般的でした。しかし、一回の治療費が数千万円から億単位に達する時代においては、そのような「要望型」の姿勢だけでは十分とは言えません。今後、日本眼科学会には、日本眼科医会や各眼科関連学会と連携し、厚生労働省や中央社会保険医療協議会での議論を通じて、医療制度の設計に専門家集団として主体的に関与していく役割が求められるでしょう。