2024/04/10

医師の働き方改革

 本年4月、ついに医師の働き方改革の新制度が開始されました。国民の健康を守る立場の医師が心身ともに健全な状態で診療業務に従事することは、患者さんのためにも必須のことだといえるでしょう。しかしながら、古くより日本の医療が医師の対価を求めない自己犠牲的な献身と労働によって支えられてきた面は否定できません。患者さん側からも無償でそれを求める風潮があったように感じます。だから、働き方改革が必要なのでしょう。私の研修医時代や助教/講師の頃は土日休日もほぼなく、余裕の過労死レベルの働き方で、それが当たり前のように捉えられていました。今思うと、よくぞ死ななかったものだと思います。そのような状態が良いとは思えませんでしたが、どのように声をあげ、どのように改善できるのかは駆け出し医師の私には分かりませんでした。
 医師の過労死と労働が最初に問題となったのは、1998年8月に関西医科大学の研修医が自宅で過労を原因とする急性心筋梗塞で亡くなったことに端を発します。このときの裁判では、まず研修医が労働者かどうか、という点が争われたのです。今となっては“え?”と思われるかもしれませんが、大学側は「研修は教育だから研修医は労働者ではない」との考えだったのです。当時、私は研修医が過労死した病院に勤務していたのですが、勤務時間を把握するシステムはありませんでしたし、対価を求めない労働を要求された時代だったといえるでしょう。看護師さんたちが病棟で申し送りをして勤務交代するのが、申し送る相手のいない自分にはとても羨ましかったのを覚えています。今は研修医も含めて医師は労働者であると認識されており、病院が医師の勤務時間を把握するのは当たり前のことで、勤怠管理システム(例えばDr. JOY)を導入し、医師がどこにいるかを把握する病院も多くなってきているようです。臨床業務に関しては理解しやすく、勤務時間も把握しやすいと思います。また、医師の負担を減らすための業務タスクシフトも進んできていると思います。
 過労を避けるため、基本的に当直明けは休みを取らなければならない、とされます。眼科医でも全科当直を求められる病院もあり、翌日休むと眼科診療や手術ができなくなってしまう病院もあります。休むにはそのための体制が必要ですが、限られたマンパワーでは現実のところ不可能な施設もあると思われます。A水準(時間外・休日労働の上限:960時間/年)のほかにB水準、C水準(上限1,860時間/年)が設定されていても、地方では限られた医師数で診療を行わねばならず、医療の集約化が進むでしょう。
 私が不思議に思うのは自己研鑽の扱いです。基幹施設では専門医の在籍人数を要求されますが、専門医の受験資格を得るための学会発表や論文執筆、学会参加は自己研鑽とされます。しかし一般企業なら業務としての扱いかもしれません。また、大学など教育機関の教育職は附属病院でも勤務し、臨床、研究、教育の3つが求められます。研究は自己研鑽に該当するのかどうか、という議論があります。研究を自己研鑽とみなせば時間に関係なく没頭できるのが利点だ、という考えもありますが、研究、論文執筆、学会発表などがすべて自己研鑽の一括りに入れられてしまうことは大きな問題だと思います。多くの教育職は定期的に業績を報告することを求められ、必ず学会発表や論文の評価があります。自己研鑽とされるものが、業務実績の評価に使われるのは何か納得できない気もします。また2022年甲南医療センターの専攻医が過労自殺した件では、過重労働の多くの部分が自己研鑽であり労働時間に含まれない時間だったと病院側は主張しています。以前より日本の研究力低下が指摘されていましたが、2023年10月25日発刊のNature誌に『Japanese research is no longer world class-here’s why?』(日本の研究はもはや世界トップクラスではない)と日本の研究力低下を指摘する記事が掲載され論議を呼びました。ゆとり教育そして働き方改革と、だんだんと研究離れが進んでいるのでしょう。
 当たり前のことですが、労働には対価が支払われるべきです。今の専攻医は、初期研修の頃から勤務時間を考える習慣が身に付いてますので、対価のない自己研鑽は、結果として対価に結びつくものしか行わない、となるのでしょう。日本の研究力が低下するのも当然かもしれません。
 まだまだ課題の多い医師の働き方改革ですが、この改革が日本の将来に役立つことを願っています。 

公益財団法人日本眼科学会
監事 緒方奈保子