大阪万博1970年
1970年の日本万国博覧会(大阪万博)をリアルタイムで覚えておられるのは、現在60歳以上の方々でしょう。私もその1人です。当時10歳、小学4年生の少年は、静岡の片田舎から家族総出で“未来探検”に出かけました。あの時のワクワク感は今でも鮮明です。
特に印象的だったのは、アメリカ館の「月の石」。アポロ12号が持ち帰った、あの伝説の石を一目見ようと、3~4時間も並びました。とはいえ、今のように整然と列を作る文化は未発達。押し合いへし合いのカオス状態で、子ども心に「これ、命がけじゃん....マグマ大使、助けて!」と本気で思いました。今のAKB(乃木坂?)の握手会も真っ青。知らんけど。
会場では、人生初の「動く歩道」に大興奮。何度も往復し、親には「もうええ加減にしなさい」と怒られましたが、未来に触れた少年のテンションは止まりません。
「缶コーヒー」もその時が初体験。「ワイヤレステレホン」「ビデオ通話」「壁掛けテレビ」など、まるでドラえもんの道具かと思うような未来グッズに目を丸くして驚きましたが、今では日常生活に普通に存在しています。「人間まるごと洗濯機」なんてぶっ飛んだ展示もありましたが、さすがにこれは今でもSFのままですね。
1970年の大阪万博は、高度経済成長のシンボルとして開催され、日本中に夢と希望と、ちょっとした筋肉痛と膝痛を届けた一大イベントでした。
大阪・関西万博2025年
そして時は流れ、半世紀。あの少年は、膝と腰に湿布を貼りながら、再び万博の地へ。
2025年の大阪・関西万博は、「成長期」から「成熟期」へ進んだ日本社会の中で開催されます。1970年の「人類の進歩と調和」から、時代は「持続可能性と共生」へ。夢のスケールは変わらず、でも視力と体力はやや低下。
かつて世界に誇った日本のインフラや技術力も、今や「維持・更新」という新たな課題に直面しています。これもまた、成熟の証でしょう。
注目の展示には、「火星の石」や「はやぶさが持ち帰った砂」など、宇宙規模のロマンが満載。さらにAIやロボット・アンドロイド、iPS細胞から作られた組織や臓器、再生医療など、未来が現実になりつつあります。
APAO 2014年
眼科における万博的イベントである、アジア太平洋眼科学会(APAO)が日本で最後に開催されたのは2014年、国際眼科学会(WOC Tokyo)との合同開催でした。日本の眼科のレベルを世界に示すこと、そして若い先生方に国際的な視野を持ってもらうことが目的でした。
APAO & WOC 2014には史上最多の約2万人が参加し(現在でもこの記録は破られていません)、日本の魅力を世界の先生方に知っていただくことができました。日本からアジア、そして世界への発信力が高まり、国際的な交流やネットワークも大きく拡がりました。
次の日本APAOは?
あれから10年以上。アジアの眼科は、猛スピードで進化中。国際的な視野の広さも印象的で、海外への留学生も多く、国内の学会であっても英語で開催されていることが珍しくありません。
一方、日本はというと、海外への留学者数が激減し、国際的に注目される論文数も相対的に減ってきています。その背景には「英語がニガテ」「海外は遠い」といった“ガラパゴス的課題”が見え隠れ。
そのため、日本眼科学会(日眼)では2025年の総会からシンポジウムを英語で実施する取り組みを始めました。初めての試みでしたが、意外と盛り上がり、「あれ? 意外とイケる?」という空気も。海外からの参加者も徐々に増え、国際化の波がジワジワと押し寄せています。ここからが本番です!
このモーメンタムを維持・強化するため、日眼では昨年、APAO招致委員会を立ち上げ、日本開催を目指して準備を開始しました。ライバル国も多く、総会での投票を勝ち抜く必要がありますので、現時点で確たることは申し上げられませんが、2029年の開催を目指して、関係者一同、全力で取り組んでいるところです。
成熟した日本の「再発信」
1970年の大阪万博が“夢見る少年の国・日本”を世界に示したように、2025年の万博と2029年のAPAOは、「成熟した大人の国・日本」の知恵と魅力を世界に再発信する絶好のチャンスです。夢と科学と人間の努力が交錯する舞台。それが万博であり、APAOなのです。
そして、あの時の少年は今、こう思っています。
「未来って、案外、膝にくるな...」と。
公益財団法人日本眼科学会 常務理事
アジア太平洋眼科学会(APAO)President
大鹿 哲郎